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文化のドーピング

大衆小説が発生したのは大正時代の後半、その内容は侍が活躍するというものである。

なぜ侍なのか? 侍が活躍するという物語に、人々が慣れていたからだ。

なぜそういった物語に慣れていたのか?およそ二五年程度、侍が活躍する講談速記本のブームが続いていたからだ。

お芝居、その他の分野によって作られたある種の物語やエピソードは、講談速記本によって単純化され、人々の間で共有されていた。たとえば湯治に訪れた侍が、喧嘩に巻き込まれてしまい……というものや、借金の形に娘を連れ去られそうになる老人を通りがかった正義の侍が……といったエピソードである。

とにかく大衆小説は滅茶苦茶に面白い。後悔はしないと思うので、どれでもいいから一度読んでもらいたい。

image神州天馬侠(一) (吉川英治歴史時代文庫)

こちらは少年向けに書かれているため、読みやすい。

富士に立つ影(決定版)

この作品の主人公は、すべての創作物の中でもっとも魅力的な人物だと思う。日本語読める人は皆読めといいたいところだが、とても長い。仕事を引退した時のおたのしみにとっておいても良いかもしれない。

http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person283.html 大菩薩峠は奇妙な作品、説明しにくいが、全編通じて一定の面白さを維持しているのがすごい。

それらのエピソードは、映画や浪曲のレコード、そしてラジオを通じ、より洗練された形でさらに幅広い層へと広がり、その結果、老人と子供が同じエピソードを共有している社会が到来する。

こういう状況は、非常に物語を生産しやすい世界だ。

例えば漫画などでは、手から気を放出し相手にダメージを与えるような技は、なんの説明もなく登場する。なぜならドラゴンボールのかめはめ波を、ほとんどの人が知っているからだ。このように、共通認識が増えれば触れるほど、物語というのは作りやすくなる。

それならば文化を発展させようという意図で、特定ジャンルの物語を無料で配信し無理矢理発展させるというようなことは出来ないのだろうか? 計画的に文化をドーピングするというのは、異様な発展の仕方をする可能性もあり、私としてはかなり興味深い。

こういう試みを国家規模でやろうというような国があれば、是非とも観察してみたい。

Tags: 100manga
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鳶魚とフィクション

三田村鳶魚の『大衆文芸評判記』という本がある。「江戸学」の祖が、大衆小説家をバッサバッサと斬っていく。で、指摘している部分は正しいのだけど、鳶魚という人が根本的に大間違いしている部分があるので、読んでいるとかなり妙な気持ちになってしまう。

で、彼はなにを間違っているのか。

私としてはこの中に書いてあることが、錦絵表紙の草双紙にあること以上に不思議なものであって、確かにこういう読み物として、五六十年も逆転した感じがある。そうしてまたよくもよくもこれほどトンチンカンな馬鹿げたことが書けたものだと思って感心する。これが現代に沢山の読者を持ったということも、そうなると呆れ返らないわけにはゆかない。私はこの縮刷本の巻頭に入っている、著者の肖像を眺めて、それほど年を取った人とも思われないのに、どうしてこんなものが書けるほどぼけたものかと思って、それが不思議にたえません。

フィクションの楽しみ方は、文化の成熟度合いによって変化していく。

詳しく説明するのは大変なので、適当に解説してしまうと、いわゆる草双紙というのはフィクションと現実の区別が曖昧な時代、次にくるのがフィクションに間違いが許されない時代だ。日本では初期の講談速記本が、ブームになっていた時代に当たる。

そして今と同じく、フィクションをフィクションとして楽しむ時代、だいたいこういう風にフィクションの楽しみ方は進歩していく。大衆小説の読者はフィクションとしてそれを読んでいるし、作者もフィクションを書いている。誰も本当の話だとは思っていない。

こういうことを知った上で、次の指摘を読んでみると、なんとも奇妙な気持ちになる。

江戸の美濃屋何某という花火屋であって、この山中まで花火の試験に来たのだ、ということになっている。「その当時花火試しは人里一里水隔てのおきてだったから」云々と書いてありますが、江戸市中では花火の試験どころじゃない。揚げることすら許されなかった、ということは法令に書いてあるけれども、「人里一里外水隔てのおきて」なんていう規定は何にあるのか。見たことも聞いたこともない。その法令がどこにあるか、ということを知らないばかりでなく、江戸の花火屋が相模まで出張って、愛鷹山中へ来て、花火の試験をする、ということは受け取れない。

「人里一里外水隔てのおきて」というのは、江戸の美濃屋何某という花火屋を、愛鷹山へ移動させ、花火を上げさせるための小道具だ。実際の法令なんかは全く無関係、この世界ではそういう風になっているのだろうといった所で処理すべき言葉である。そういう技術を持っていない人には、高度なフィクションを楽しむことはできない。これは好みの問題とか、読み方の違いとかの問題ではない。ある技術を持っているか持っていないのかという問題で、持っている人は読者としてレベルが高い。持っていない人間はレベルが低い、それだけの話だ。

もちろん鳶魚もフィクションというのはあくまでフィクションであって、というようなことは書いているが、実際のフィクションの読み方が初期の講談速記本の読者の水準にとどまっているのだから、言い訳にはならない。自分自身が三〇年程度遅れたレベルの低い読み方をしているにもかかわらず、五六十年も逆転した感じがあるなどと書いてるというわけで、耄碌してるのは著者自身ということになってしまう。時代遅れの頑固爺が見当外れの批判を繰り広げるというギャグなら成立するのだが、残念なことにそういう風には作られていない。なんとも奇妙な文章である。

それじゃ三田村鳶魚は知的レベルが低い人間なのかというと、それはとんでもない話だ。鳶魚の著作はあまり読んだこともないのだけど、これなどは面白かったような記憶がある。

image江戸ッ子―鳶魚江戸文庫〈9〉 (中公文庫)

そもそも鳶魚がこういう頭の使い方をしていたからこそ、偉大な仕事をなしえたわけで、講談速記本オモシレ-、大衆小説サイコ-というような人物ならば、ほかの仕事をしていたことだろう。

とにかくフィクションを楽しむというのは、なかなか難しく、誰もができることでもない。鳶魚時代ならまだしも、現代でもある分野では優秀かつ地位も得ている人が、無知な分野に口出しをして、見当違いなことを書いてしまうというのはわりとある。

で、なにが言いたいのかというと、講談速記本の評価の低さの原因はこういうところにもあるんじゃないのかと最近は考えたりしている。 鳶魚いう人はかなり知的水準の高い人だ。大衆小説というのも、当時すでにある程度まで認められていた。それでもこういう勘違いが発生してしまう。まして当時から馬鹿にされていた講談速記本をまじめに論じようという人など存在しないのが当然といったところなのだろう。

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デザインという言葉

デザインと見た目は、だいたい同じような意味で使われている。

だから見た目という意味で、デザインって言葉を使う人は、デザインなんかは好き好きでしょうというような発言をする。そういう人とは別に、意匠や構造なども含めてデザインとして捉えている人もいる。この二者が、日常会話するのはなんら問題ないんだろうけど、仕事を一緒にするとなると、かなり厳しいことになる。

実際、デザインという言葉に対する認識の違いによって、この世の中に生まれたダサイ商品は多いと思う。

見た目の意味でデザインを使っている人が認識を改めようと思えば、なんだかんだで一時間程度読んだり考えたりすればすむことなんだけど、普通は大人になって言葉の定義について考え直そうとは思わない。あとこれまで間違った定義を基準にものを考えてきたから、新しい知識を元にして考えるのが難しいというのもあると思う。普通は難しいことは嫌なので、知識はあるけど考え方は変わらないということも十分に起きうる。

思いついたのでデザインのことを書いたんだけど、これに似た現象は探せば大量にあると思う。ものすごく基本的なことを知っていて、それに沿ってものを考えることができるかってだけの話なんだけど、改善しようとするとかなり難しい。

Tags: もろもろ
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書店という習慣

近年、書店の数が減っているらしい。こういう変化は明確に数字として出るから分かりやすい。そんなわけで書店がなくなると、本との新しい出会いもなくなるみたいな話が出てくる。ただ個人的には、書店が減ることで発生する本との出会いというのは、あまり意味のない話だと考えている。

かって避暑地には、いくつも古書店があった。長期滞在する観光客は、何冊も書籍を買い、夏の間は読書を楽しむ。夏の終わりには、書籍を古書店に売り、避暑地を去る。これは良い文化だ。新しい本との出会いもあるだろう。しかしこういうことは、今やほとんど行われていない。

それではこういった習慣を、電子書籍の分野で復活させましょうという話になるかといえば、そうはならない。避暑地に滞在しいくらか払うと、その場所にいる間は登録されている書籍は読み放題になる……というようなものになるのだろうけど、おそらくコスト的にはあわないだろう。

避暑地で本を読むという習慣は、どちらかといえば裕福層の所有物だ。もともと普通の人にはあまり関係ない。普通の人向けの消えてしまった書籍との出会いならば、訪問貸本屋というのがある。貸本屋がその地域に住んでいる人が喜びそうな本をあらかじめ取りそろえておく。その上で借りたい本はないですかと、訪問するという商売だ。こちらも本との出会いを促進するが、こういう商売がなくなったから普通の人の知的レベルが大幅に減少したという話は聞いたことがない。

私自身は書店を利用していた人間なので、減ってしまうのは寂しいとは思う。その一方で書店を利用したことがない人は、寂しいとも何とも思わない。書籍との出会いが減るわけでもない。ただ習慣が変わってしまうだけのお話だ。

Tags: 今の文化
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イケメンの漱石がイギリスでハンサムジャップと罵られたというシャレ

夏目漱石はイケメンであり、イギリスでハンサムジャップと罵られたことがあるというようなエピソードが、ネットで流れているのを見たことがある。

これはかなり上手くできたシャレだが、理解するためにはいくつか知っておかなくてはならないことがある。

こういうことを書くのはヤボなのだけど、かなり気に入ってしまったので、解説をしておきたい。

明治期の写真はほとんど修正されている

明治期の写真が修正されているというのは、わりと有名なお話だ。

当時は写真を撮ること自体が珍しかった。せっかく撮るんだからと、写真は修正されることが多かったというわけだ。

欧米諸国へのコンプレックスもあって、西洋人の美しい顔を目指し修正していたのだろう。だから明治人の写真は、鼻筋が通っていて、目もパッチリしているものが多い。そんな写真を見て、現代の私たちが、イケメンだと感じてしまうのも当然の話である。

というわけで、『漱石はイケメンだったため』という前提自体が、まずおかしいということが分かる。

ハンサムジャップが出てくるエッセイには冗談で溢れている

「handsome Jap」は、『倫敦消息』というエッセイの中に出てくる。この文章は雑誌「ホトトギス」を主催する旧友正岡子規への手紙という体を取っていて、全体が冗談のようなものだ。 分かりやすい部分を引用すると下記の通り。

可憐なる彼ら――可憐は取消そう二人とも可憐という柄ではない――エー不憫なる――憫然なる彼らはあくまでも困難と奮戦しようという決心でついに下宿を開業した。その開業したての煙の出ているところへ我輩は飛び込んだのである。飛び込んでからだんだん事情を聞いたときにこんどこそはこの二人の少女、ではない我輩より三寸ばかり背いの高い女に成功あらしめたまえと私ひそかに祈念を凝らした。

とまあ全体がこういう雰囲気の文章だ。

ところで漱石の留学があまり愉快なものじゃなかったというのは有名なお話で、当時彼がなんらかの精神の病を患っていたのはほぼ確実だ。そういう事実はなかったというお話もあるけれど、漱石の作品や周囲の人が書き残したエピソードを読めば、誰だって察することができるだろう。

この文章も病を押して書かれている上に、ちょっとした出来事をかなり無理して面白おかしい冗談に仕立て上げている。

なんでそんなことを漱石がしたのか。漱石の留学中、結核の子規の病状は進み、かなり絶望的な状況だった。その子規は、漱石の愉快な手紙を喜んだ。

>余が倫敦に居るとき、忘友子規の病を慰める為め、当時彼地の模様をかいて遙々と二三回長い消息をした。無聊に苦んで居た子規は余の書翰を見て大に面白かったと見えて、多忙の所を気の毒だが、もう一度何か書いてくれまいかとの依頼をよこした。此時子規は余程の重体で、手紙の文句も頗る悲酸であったから、情誼上何か認めてやりたいとは思ったものの、こちらも遊んで居る身分ではなし、そう面白い種をあさってあるく様な閑日月もなかったから、つい其儘にして居るうちに子規は死んで仕舞った。

漱石は暇な身分ではないから続編を書けなかったとしてあるが、実際には書く気力がなかったのだろう。

ちなみにこれを悔んで、後に漱石は何作品か子規が好みそうな作品を書いているが、とにかく親友の子規を喜ばせるために、漱石はこういう文章を綴ったのだ。

『倫敦消息』には、子規が主催するホトトギスを読んでいると、「君も天智天皇をやるのかね」と聞かれたなどといった内輪向けのギャグまで登場するのだから、子規のためだけに書いたとしてもよいくらいだろう。

というわけで漱石は『イギリスで見知らぬひとにハンサムジャップと罵られた』と書いてはいるものの、これは自分の風貌を知ってる子規を笑わせるために創作したエピソードの可能性すらある。

冗談を生真面目に受けとるというシャレ

以上のような事情を知った上で、『漱石はイケメンだったため、イギリスで見知らぬひとにハンサムジャップと罵られた』というのを読むと面白い。

漱石は自分はイケメンではないと子規が知っているという前提で、ハンサムジャップと罵られたと書いているわけだが、それを子規が文字通りに受け取り、なるほど君はイケメンだからなと答え漱石を困惑させる……というようなシチュエーションは、漫才なんかではよく使われる構造だ。

この冗談を真面目に受け取っている人もいるようだから、余計に面白い。

趣味が悪いと感じる人もいるのだろうが、私はなかなか上手くできたシャレだと思う。

Tags: 明治文化
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素人研究の方法

素人研究について

かって古書店巡りをしていた頃、何人かの素人研究家に出会った。軍歌の研究や、外国語辞書研究、あるいは紫式部の住所を特定する研究など、その全貌はよく分からないのだけど、彼らの話を聞くのは楽しかった。その目的は様々で、完全に個人的な楽しみの人もいれば、自分の研究に多少の自負と色気もあって世間に発表したいという人もいる。

ぶっちゃけた話をすると、50-100万程度の資金を用意し、上手く研究の対象を選び、時間さえかければ、誰もがなにかを発見することは出来る。プロが研究しないことを対象にすれば、そういうことは出来てしまうのである。

ところが素人の研究を発表し、認めてもらうというのはかなり難しい。外国語辞書を研究していた人は、とにかく外国語辞書を集める事が目的だった。選り好みしないという条件が付くけれど、古書店で売られている外国語辞書は安い場合が多い。ひたすら数を集めるのであれば、安価に楽しむことができる。外国語辞書研究をしている人は十分に満足してたのだから、それはそれで崇高な行為だ。

ただしできれば自分の研究を発表し、認めてもらいたいという人が、彼の真似をしてしまうと、悲惨な結果になってしまうだろう。

私も素人研究家の一員で、なるべくならば研究の成果を発表したいと思っている。様々な幸運が重なって、今はたまたま研究の成果を発表することができているので、自分の経験からなるべく認めてもらいやすい方法というのを書いておこうと思う。

自分は玄人ではない

始めに必要なのが、自分は玄人ではないという事を認識することだ。

素人は玄人と比べると、触れることが出来る資料が限られる。論文へのアクセスもそうだし、学会や研究会に参加するのも難しい。

発表の方法についても同じで、私は掲載料を払ってまで、論文をなにかの媒体に掲載してもらう気にはならない。なぜなら素人であるのだから、掲載されたところで特別なメリットがないからだ。それはそういう場所で活動しているからこそ、得られるメリットであって、部外者には関係がない。プロの雰囲気を感じられることが好きな人なら、メリットはあるのだろうけど、プロでもないのにプロの方法を真似する意味はない。

素人が有利な点というのは、プロとは違う方法で研究することが出来るということだ。研究の対象も自由に選ぶことができる。

ところがプロと違う方法で違う事柄を研究するためには、玄人の方法を学ばなくてはならない。効果的にルールを破るためには、ルールを知ることが重要なのである。

玄人研究の方法

研究の入門書として、私がお勧めするのは下記の本だ。

論文作法―調査・研究・執筆の技術と手順 (教養諸学シリーズ)

これは学生向きに書かれたガイドブックだから、プロの方法というわけではない。しかし論文の書き方や情報のまとめ方など、かなり分りやすく書かれている。

もっとも私がこれを読んだのは十年も昔の話だ。今はもっと良い本が出ているもしれないが、とにかく基本的な方法は押えておく必要がある。

いくらコレクションを集めたとしても、整理が伴っていなければ役には立たない。自分しか知らないことがあったとしても、一定のルールに従って書かなくては、人に認めてはもらえない。

トリッキーな方法で発表をするにしても、基本を知っていればこそである。

プロが研究している分野を知っておく

プロが研究している分野を知っておくことも大切だ。研究の成果があるのであれば、そこから学んでしまえば効率的だ。

誰も知らないことを発見し、多少なりとも有益な研究にしたいのであれば、プロと同じ場所を調べるのは避けたほうが良いだろう。素人は様々な部分で不利なのだから、プロと同じ場所を同じような手法で調べたところで勝目はない。手付かずの分野を探し出すためには、研究されている分野を知る必要がある。

他の分野を研究しておくこと

自分の研究する分野にこだわらず、様々な分野の研究方法を調べておくことも大切だ。

ルポルタージュを書く (同時代ライブラリー)

この本はルポルタージュの書き方で、研究という点ではあまり役に立たないが、研究成果を出力する方法を学ぶには役に立つかもしれない。

全く異なる分野の調査方法を学ぶというのは、かなり参考になる。学問の分野によって、研究の進め方や方法も違う。重要なのは考え方を知るということで、だいたいの概要を知っておくだけで良いだろう。私は統計学についてはほとんど知らないが、薄ぼんやりと知っている部分もあるため、自分が出した数字や判断があまり客観的なものではないなと理解することは出来る。自分の出した結果が、曖昧なものだと理解することが出来て、疑うことができるようになれるのだから、統計学の書籍を一冊読んだ価値はあるのだろう。

またある程度まで、パソコンを使えるようになっておく。私は検索しながら10行そこそこの汚いスクリプトを書く程度の技術力しかないが、知らない頃よりかなり効率的に書くことが出来ている。基本的に一人で研究するのだから、雑多なことはパソコンにやらせてしまうのが正解だろう。

研究の結果を予想するために

ひたすら調べ続けたものの、どう出力してよいのか分からず、失敗してしまうのはなるべくならば避けたい。

というわけで他人が研究した結果、出力した論文や書籍を読んでおく。

こうすることで、自分の研究の完成した姿を想像することができる。どのような結果を出したいのか想像しておけば、どのような資料を集め、どのような手法で整理しておくのが効率的か、自から見えてくるだろう。

出力先を確保しておくこと

発表する場所は、自分で用意してしまうのがお勧めだ。なぜなら出力先を用意しておいたほうが、確実に飽きにくいからだ。また人に見てもらうことによって、自分の今の水準がある程度まで客観視できるというメリットもある。場合によっては、その研究は面白いので、広く発表してみませんかと声がかかることもある。

昔と違い、ブログやSNSなど研究成果を安価に公表できる場所は大量に存在する。ところがこういうことを調べましてまとめましたから、この長文をみなさん読んでくださいというのは、なかなか読まれにくい。文章が長くなれば長くなるほど、読んでくれる人は少ない。

あくまで個人的な感覚だが、研究の断片の中から、人が興味を持ちそうな部分を選び出し、短かく出力していくというのは良い手法だ。読むために10時間かかる長文よりも、10秒で読める断片のほうが、ずっと読まれやすい。読んでもらうために書くことで、多少の文章力の向上も期待できる。

形を変えて出力するというのも効果的で、私はかって明治大正の職業観について調べた結果を、絶版本のアンソロジーとして出版した。研究の結果を直接文章に書いてはいないが、文章の選択や並べ方で感覚的なものは十分に伝わると考えたからだ。

まとめ

以上は個人的な経験を元にして書いている。

私自身は人が知らべていないことに興味が向きやすいから、そういうことを調べている。オーソドックスな事柄を好む人が、無理矢理そういう分野に興味を向ける必要も意味もない。

また私はきっちりと手続を踏んで、公の場所に公開するというのも、苦手で嫌いだからしていない。そういうのを好む人は、そういう風にやったほうが良い。

素人研究というのは遊びなのだから、面白くないことはしないというのが一番重要だ。そういう意味では、冒頭で紹介した良いも悪いもなく、ひたすら外国語辞書を集め続けることに喜びを見出していた人は、素人研究の成功者なのだろう。

以下も同じようなテーマで書いた記事なので、一応紹介しておく。

暇つぶしや道楽の選び方 http://yamasitataihei.tumblr.com/post/23278067615

道楽や暇つぶしを公開するメリット http://yamasitataihei.tumblr.com/post/23281165299

Tags: 素人研究
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価値観ゲーム

以下に紹介するのは、自分の価値観を試すためのゲームだ。

なかなか楽しいゲームなのだが、想像するのが苦手であったり、無意識に自分の立ち位置を取り繕う傾向がある人は、正しく遊べないかもしれない。

まずは現在の自分にとって小学生の100万円に値するものを、もらえる権利があると仮定する。

小学生の百万円は、大人ならば1億円かもしれないし、寿命10年分かもしれない。

とにかく欲しくて仕方のないものを想像する。

次にこの権利を放棄すると、なにか良いものが全世界に公開されるとしよう。

自分が欲しくて仕方がないものを放棄してたとしても、見てみたいものというのは、なかなか思い付かない。現実離れしていてもよいので、良いものをいろいろと想像してみる。

  • 金星の高解像度写真を1000枚撮影し公開する
  • 異常な強度を持つ軽い布の製造方法を公開する
  • 現在の100倍の断熱効果を持つ壁紙の製造方法を公開する

これで分かるのは、自分の中で自分よりも価値が高いと判断している存在だ。

自分が欲しいものというのは、結局のところ自分という存在の延長でしかない。寿命10年というのは自分という存在を、より長く保持することであるし、1億円というのは自分という存在の影響力を増やす道具だ。

自分の存在を広げるよりも、それが見たいものというのは、自分よりも好きなものだのだから、なかなか思い付かないのが当然だ。

とまあ私は暇潰しにこんな遊びをするわけだが、考えてみると自分よりも見たいものを考えるというのは、かなり強烈なことのようにも思える。

Tags: 素人研究
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時間を早めるためのコスト

明治の6年に明治天皇がチョンマゲを止めた。その結果として、斬髪が徐々に広がり始めた。明治の12年あたりには、ほとんどの人が散切り頭になっている。

こういうことは自然な流れで、放っておけば良いことなのだが、意識的に早めようとするとたいへんなコストがかかる。

明治の6年、とある県がチョンマゲの人から税を取り始める。それだけでなく村人たちを説得し、斬髪にさせた村長に対し、賞状授与をするという制度まで作っている。これは、斬髪をより早く普及させるためのコストだ。

ところがその3年の後、府県統合によって、斬髪推進県自体がなくなってしまう。他にやるべき事は、沢山あったということなのだろう。

Tags: 明治文化
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こちらも大正2年の同じ出版社の広告。

この他、速乾性のインクの作り方などの小冊子も販売しており、やはりよく分からない。

こちらも大正2年の同じ出版社の広告。

この他、速乾性のインクの作り方などの小冊子も販売しており、やはりよく分からない。

Tags: 明治文化
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大正二年の広告。

二種類の薬品を混ぜて気化させると、塗った白粉が黒くなってしまうという方法を販売しているらしい。値段は現在の感覚だと600-1200円くらいだろうか?

この出版社、27ページ程度の小冊子を現在の貨幣価値で1500-2400円程度で販売しているのだが、そのうちの10ページが広告、どういう層が購入していたのか、ちょっと想像がつかない。

大正二年の広告。

二種類の薬品を混ぜて気化させると、塗った白粉が黒くなってしまうという方法を販売しているらしい。値段は現在の感覚だと600-1200円くらいだろうか?

この出版社、27ページ程度の小冊子を現在の貨幣価値で1500-2400円程度で販売しているのだが、そのうちの10ページが広告、どういう層が購入していたのか、ちょっと想像がつかない。

Tags: 明治文化